踏切の名前の謎(4) 夕張のファッション通り踏切

先週から書いてきた踏切の名前の話ですが,キリがないし,この本のネタバレになるので,今日を最後にします。
興味を持たれた方はぜひ,2020年1月30日発刊の今尾恵介著「ゆかいな珍名踏切」(朝日新書)をご購読することをお勧めします。

ゆかいな珍名踏切 (朝日新書) - 今尾 恵介
ゆかいな珍名踏切 (朝日新書) - 今尾 恵介

踏切の名前には住所表示変更で消えてしまった地名やかつてそこにあった店の名前がついている例を見てきましたが,今日は町自身の歴史を感じさせる踏切の話です。

夕張市は北海道で最も人口減少の多い都市の1つ。
炭坑都市として賑わった最盛期の昭和35年には人口11.7万人を記録し,道内7位を誇りました。

この写真はその昭和35年(1960年)の夕張,斜面には炭鉱住宅がびっしり。

4yubari.jpg

現在では最盛期の7パーセントの人口で,1万人を割っています。
夕張市には石勝線の夕張支線がありましたが,鉱山閉山後は貨物輸送は廃止され,去年の平成31年4月1日付で廃止されています。

そんな線内の鹿ノ谷~夕張間にあったのが「ファッション通り踏切」
プレートには「通り」も「踏切」も省略され,ただ「ファッション」と。

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炭坑のイメージとは少しかけはなれたネーミングですが,今尾さんが取材中に歩いていたご婦人に尋ねたところ,かつてこの近くに「ドレメ」があったとのこと。

「夕張ドレスメーカー女学院」は洋裁学校として昭和26年に開校
生徒数は多い年で170名を超えました。

また,市内には昭和54年には和洋裁学校が3つありました。
それだけ町は賑わい,若い女性が和洋裁を学びに通っていたんですね。

これが「ファッション通り踏切」(跡)。
夕張ドレスメーカー女学院は左上すぐ近くにあったそうです。

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かつては若い娘さんたちが近くの手芸屋さんで糸や材料を買い,学校に向かう姿をよく見かけたそうです。
夕張最後のドレメは平成に入ってほどなく休校しましたが,建物はしばらく残っていました。

でも平成24年にその建物もまた解体されたそうです。
廃線となったこの踏切もまたいつかはなくなってしまうのでしょう。

最後に,教員になりたての頃,夕張市から転校してきたO君という生徒がいました。
そのころ,よくテレビのドキュメンタリーで夕張市の炭坑閉鎖が取り上げられ,夕張の中学生が会話している場面で「Oも転校しちゃったし」という会話がありました。

もしかすると転校してきたO君のことではないか,と思ったものでした。

夕張と言うと,そのことを今でも思い出します。

(写真はネット上からお借りしました)


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この記事へのコメント

2020年02月04日 09:17
おはようございます。

 歴史詩を感じさせる踏切の名ですね。
 「ドレスメーカー女学院」というと、杉野芳子さんが創設した洋裁学校で、多くの服飾デザイナーを育てた学校でした。私の母も「ドレメ式洋裁」を学んで、我が家の一角で洋裁店を開いていた時期がありました。
 母は、雑誌の「ドレスメーキング」を定期購読していたのですが、そこに連載されていた服飾史は私もよく読んでいました。その「ドレスメーキング」もしばらく前に休刊になりましたね。昔ほどミシンを踏む人がいなくなったのと、美の価値の多様化・細分化が進んだ為かとは思うのですが、残念です。一時代を築いた雑誌でしたので。
2020年02月05日 00:18
あきあかねさん
こんばんは。
私は詳しくはないのですが,ドレメという言い方は1つの団体を表すのではなく,各地にある洋裁学校のことを言うのでしょうか。仙台のドレメは調べてみると仙台で独自に発展した学校のようです。1940年に「宮城ドレスメーカー女学院」として始まり,2017年には校名を「ファッション文化専門学校DOREME」と変更したようです。
あきあかねさんが書かれたドレスメーカー女学院は最も有名はドレメのようですね。仙台同様,夕張ドレスメーカー女学院は東京の杉野学園とは関係がなさそうです。となると全国には「○○ドレスメーカー女学院」がたくさんあったのでしょうか。

2020年02月05日 09:11
おはようございます。

 私も専門に学んだわけではなく、ずいぶん昔に読んだ服飾史の文献の知識なのですが…
 婦人服の仕立てや仕立師に関しては「ドレスメーキング(dressmaking)」、「ドレスメーカー(dressmaker)」という一般名詞があって、これは明治時代に日本に洋服が入ってきた当時から使われ始めていました。当初、その仕立て方、採寸の仕方、型紙の作り方は、その仕立て師によってまちまちだったそうです。師匠から弟子への伝承とか、ドレスのシェープによって異なっていたのだと思います。
 それを杉野芳子さんが昭和の初めにパターン化して、初心者でも型紙が作れるようにしました。そのパターン化した型紙とその製作法が「ドレメ式原型」(当初は杉野芳子さんのイニシャルをとってY・Sパターンと呼んでいたようです)で、やがてその「ドレメ式原型」を使った婦人服の仕立てを「ドレメ式洋裁」と呼ぶようになりました。
 杉野芳子さんが雑誌「ドレスメーキング」を創刊してこれを広めたこともありまして、昭和の前半にはこの「ドレメ式洋裁」は婦人服の仕立のスタンダードのようになりました。
 こうしたことから、昭和の初めには「ドレメ」という言葉は婦人服仕立ての代名詞のようになります。たぶんですが、この様な背景で多くの洋裁学校がこの言葉を取り入れたのではないかと思います。
2020年02月05日 21:56
こんばんは!
夕張は、姉が生まれて地です。
夕張炭鉱の経理をしていた父と母と、生後2ケ月余りの姉の
3人は、留萌の祖父から鰊大漁で人出が居るので
帰ってこいとの命令で ここに帰ってきました。

その後、祖父や兄の手伝いをして二男の父は、漁師になり
みなと等を育ててくれました。
夕張うまれの姉は、今年の2月29日が誕生日80歳になります。

夕張炭鉱・・というとそれだけで懐かしく、
関係のないお話でごめんなさ~い(^^♪
2020年02月06日 23:51
あきあかねさん
こんばんは。ドレメの成り立ち,呼び方の起源について説明ありがとうございます。杉野さんのお弟子さんたちが全国で学校を立ち上げたということになるのでしょうか。
仙台のドレメは菅野さんという方が設立した学校のようです。
2020年02月07日 00:05
みなとさん
こんばんは。みなとさんは夕張と言う名前にはノスタルジックな感覚があるんですね。みなとさんのご家族の歴史を感じました。まるで朝ドラの「マッサン」や「なつぞら」のようです。
夕張炭鉱が斜陽となり,私の勤務校にO君が転校してきました。遠くの町のニュースが現実のものをして感じることができた出来事でした。

お姉さまは2月29日生まれなのですね。これまでで知る限り二人目のこの誕生日の方です。