青空文庫に見る日本の9月入学

このコロナ禍の中,私が住んでいる宮城県の知事が現在の4月入学から9月入学へシフトする一案を表明したことがネットやニュースで取り上げられたりしています。
昨日は都知事まで考えるに値するようなことを話していました。

よく言われるのは,外国への留学や留学生を受け入れるのに海外の多くの新学期の9月に合わせたほうがいいという理由。

まあ,それもわかるんですが,南半球のオーストラリアは1~2月が新学期の始まりで,9月が必ずしも世界のスタンダードではないような気もしますが。

日本は最初から4月入学だったわけではありません。

寺子屋の時代は特に入学時期というものはなかったそうですが,明治維新により西洋の教育が導入されると,高等教育では9月入学が主流だったそうです。

夏目漱石の「三四郎」の時代はもちろん明治

三四郎 (新潮文庫) - 漱石, 夏目
三四郎 (新潮文庫) - 漱石, 夏目

第三章の冒頭,上京した三四郎の新学期は9月始まりだということがわかります。

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学年は九月十一日に始まった。三四郎は正直に午前十時半ごろ学校へ行ってみたが、玄関前の掲示場に講義の時間割りがあるばかりで学生は一人もいない。自分の聞くべき分だけを手帳に書きとめて、それから事務室へ寄ったら、さすがに事務員だけは出ていた。講義はいつから始まりますかと聞くと、九月十一日から始まると言っている。すましたものである。でも、どの部屋を見ても講義がないようですがと尋ねると、それは先生がいないからだと答えた。三四郎はなるほどと思って事務室を出た。

このことについては,以前も一度書いたことがあります。

→ 日本はなぜ4月入学?


では,今回は著作権フリーの「青空文庫」より,かつての日本の9月入学(新学期)を見てみます。


「尾崎放哉選句集」(青空文庫)には尾崎放哉をこう紹介しています。

明治三八(一九〇五)年六月に第一高等学校を卒業した放哉は、同年九月、東京帝国大学法学部に入学。千駄木で自炊生活をした。この頃には『ホトトギス』や『国民新聞』の俳句欄にしきりに作品を投稿していたという。


「美術学校時代」 高村光太郎

 僕は江戸時代からの伝統で総領は親父の職業を継ぐというのは昔から極っていたので、子供の時から何を職業とするかということについて迷ったことはなかった。美術学校にも自然に入ってしまった。二重橋前の楠公の銅像の出来上ったのは明治二十六年頃で僕が十一歳の時であり、美術学校に入ったのは明治三十年の九月だったから齢(とし)でいえば十五歳であった。


「西の京の思ひ出」 和辻哲郎

日本美術史の講義は、わたくしどもの在学の頃に岡倉覚三先生や滝精一先生が始められたのであるが、北島さんの在学の頃にはまだその講義がなく、工科大学の関野貞先生の日本建築史の講義でそれを埋めてゐた筈である。その頃関野先生はやつと四十歳位であつたと思ふが、日本の古い建築や彫刻に対する強烈な関心で小柄な体がはち切れるやうになつてゐた。明治三十九年(一九〇六)の九月に入学した魚住影雄君は、この講義がよほど面白かつたと見えて、下宿へ遊びに行くと好くその話をした。



以下2つは「九月の新学期」という言葉が見つかります。

「次郎物語 第一部」 下村湖人

九月の新学期が始まるころには、次郎の眉も可笑しくないほどに伸びていた。皮膚の色はまだまだらだったが、人に気味悪がられるほどではなかった。次郎はむろん学校に行くつもりでいた。


「月夜」 与謝野晶子

お幸が中村家の手伝ひをするやうになつてからもう五月程になるのですがこの最近の四五日程苦しい思ひをさせられたことはありませんでした。お幸に親切な心を持つて居たおつるが九月の新学期から大阪の某女学校へ入る事になつて其地の親戚の家へ行つてしまつたことはお幸の為
めに少なからぬ打撃と云はねばなりません。中村家には意地の悪い女中が二人居ました。



以下の3つは「当時は9月入学だっと」いうふうに振り返っています。

「西田先生のことども」 三木清

その時分は九月の入学であったが、七月の初め、私は帰省の途次、速水先生の紹介状を持って洛北田中村に西田先生を訪ねた。


「悪魔の弟子」 浜尾四郎

次にもう一つあなたに思い出してもらい度い事は、われわれがあの熱い友情を語ったあの秋の夜のこと、あなたも多分おぼえておられるでしょう。私の記憶が正しいとすれば、あの頃は、学年の始りはたしか九月だった筈です。入学まもない私は、入学試験勉強にさんざん頭を悩ました結果か、やや神経衰弱のようになっておりました。


「鴨川を愛して」 新村出

 私が京都にきたのは、欧州留学から帰った直後の明治四十二年五月でした。いまから、もう五十三年も前のことです。
 さっそく、京都大学教授として教壇に立つはずでしたが、当時は、いまと違って、大学だけは七月に学年が終わり、九月十日から新学年がはじまることになっていましたので、三学期は教壇に立たず、教授会に顔を出したり、新進の人たちと話し合ったりしながら、東三本木の「信楽
」という下宿兼旅館のようなところで過ごしました。



上の文章から,大学だけは9月に新学年が始まっていたことがわかります

明治の中期は4月入学と9月入学が混在し,帝国大学や旧制高校は9月入学を維持していました。

次の文章からは,大正に入っても9月入学が存在していたことがわかります。


随筆「断片」 河上肇

 京都帝大の経済学部教授をしてゐた頃、大正九年九月の新学期から、私は経済学部の部長に補せられた。この地位には大概の教授がなりたがるのだが、私にとつて之は頗る迷惑であつた。



調べてみると,この話の前年,1919年(大正8年)に旧制高校が4月入学となり,この話の翌年,1921年(大正10年)に帝国大学が4月入学となったようです。


なぜ4月入学になったのか,などの詳細を読みたい方は過去記事をどうぞ。

→ 日本はなぜ4月入学?


さて,日本の臨時休校の現状を打開する9月入学ですが,実際は入学式だけを終えている学校もありますし,早急なことは否めません。
学校だけでなく,会計年度との整合性など社会全体の問題です。

個人的には,現在の4月入学は受験期とインフルエンザ流行期が重なるのがいつも心配の種です。

9月入学を実施するにしても,10年くらいかけて移行しないと難しいんじゃないかと思います。





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この記事へのコメント

2020年04月29日 09:03
おはようございます。

 9月を学校の年度初めにする件、先生のおっしゃる通り、私も時期尚早だと思います。このコロナ禍が良い機会だ、と強硬意見を述べる方もいらっしゃるようですが、やはり社会的、文化的混乱が大きいです。それに、約半年長く勉強しなければならない生徒さん達もかわいそうですしね(笑)。

 ところで、テーマからは外れるのですが、先生が例文で引用した与謝野晶子の「月夜」の、『もう五月程になるのですが』という文中の『五月』の読み、今の若い方には難しいかもしれませんね。常用する数詞が今と昔では異なっていますので…
 昭和の初めごろまでは、特に東京圏では「ひい、ふう、みい、よ、いつ、むう・・・」という数え方が普通でした。なので、件の文中の「五月」は「いつき」か「いつつき」と読みます。「五か月間」の意味です。
リアルET
2020年04月30日 06:25
あきあかねさん
おはようございます。
昨日のニュースでも9月入学がけっこう大きく取り上げられていました。
でも現実問題,すぐにはムリなんじゃないかと思います。
与謝野晶子の文中の「五月」は確かに「五カ月」の意味ですね。
今回青空文庫を検索してみて,けっこう9月入学に触れている作家が多く驚きました。そのころ4月入学に変更したときは,その間の数カ月は猶予期間のようなものだったのかな。