藤田信雄 ~アメリカ本土を爆撃した男(2)
前回の続きです。
太平洋戦争中に極秘の指令を受けて,山火事を起こすために
アメリカ本土に焼夷弾2発を落とし帰還した藤田信雄飛行士。
終戦後,十数年経って藤田さんは日本政府から呼び出されます。
指定された赤坂の料亭に行くと,当時の大平正芳官房長官から
こう言われました。
「アメリカが君を探している。我々は,外務省を通じてあなたの身元をアメリカに伝えました。アメリカは,真珠湾攻撃で日本軍人への反感はまだ相当に根強いものがあります。しかもあなたはアメリカ本土を爆撃した唯一の日本人です。万一,渡米して報復を受けたとしても,日本政府はあなたの身を守ることができません。日本政府は藤田さんが渡米されても一切関知しません」
藤田さんは爆撃後に上官から「死傷者も出た」と言われています。
彼には民間人を傷つけたという苦悩があります。
彼のもとに爆撃地に近いブルッキングス市から招待状が届きました。
招待状には藤田さんと家族も招待したい,とありました。
そこで藤田さんは初めて戦争中に何があったかを話しました。
藤田さんの中には,自分の爆撃で死者を出した。どれくらいの被害が
出たかを自分の目で確かめなくてはという気持ちがありました。
藤田さんは何かあれば自決するつもりで日本刀をもって行きました。
ただならぬ決意に,家族も同行することに決めました。
1962年5月23日,藤田さんは家族とオレゴン州ブルッキングス市
に到着しました。特別な許可を得て持ち込んだ日本刀を携えて…。
そこで待っていたのは・・・市民の大歓迎でした。
ブルッキングス市では,毎年恒例の「アザレア祭り」というイベントに
毎回,特別ゲストを招いていたのです。
ちなみにこれは去年の祭りのHPから。
この年,アメリカ本土爆撃を一機で実行した日本人の勇気を称えよう
という声が上がり,彼らはオレゴン州の日本領事館に手紙を書き,
外務省を通し連絡先を入手し,藤田さんに招待状を送ったのでした。
ブルッキングス市民にとっては藤田さんの英雄的な功績を讃え,
さらなる日米の友好親善を図ることが目的でした。
藤田さん来訪を歓迎しない人もいました。
まだ戦後17年しかたっていないのです。
しかし,藤田さんを待っていたのは・・・
主催したブルッキングス青年会議所の「戦争を美化するものではなく
あくまで日米両国の友好と平和親善のため」という趣旨に賛同した
市民からの募金による心温かい歓迎でした。
藤田さんは信じられませんでした。自分の爆撃で死傷者が出たはず。
しかし,藤田さんは意外な事実を告げられるのです。
藤田さんの爆撃で燃えたのは1本の木のみでした。
上官から聞いたという「死傷者が出た」というのは誤訳か,
戦意高揚のための軍の創作だったのです。
藤田さんが投下した焼夷弾のためにブルッキングス市の東約15キロ
の地点でぼやが発生しましたが,アメリカ林野部によってすぐに鎮火。
結果として木が一本燃えただけであったそうです。
しかも,前夜に雨が降ったため,森林は濡れていたそうです。
プレートにはこうあります。(おそらく古い写真です)
「日本による爆撃地
第2次大戦中,アメリカ本土に唯一,日本の爆弾が落とされた
1942年9月9日」
なぜこんな人情あふれる人たちと戦わなければいけなかったのか。
なぜ多くの若者はあの戦争で死んでいったのか。
藤田さんは事実に驚くと同時に,平和を誓うしるしとしてあの
日本刀をブルッキングス市に寄贈することにしました。
藤田さんはブルッキングス市民の前で話しました。
「もし,私たちが互いをよく知る友達であれば,そもそも戦争は起こらなかったのではないか? そう思うのです。そこで…私は約束します。日本のことをあなた方に知ってもらうために…いつの日か,必ずブルッキングス市のこどもや学生たちを私の手で日本に招待したいと思います」
その後の藤田さんについては次回。
2回で終わらせようと思いましたが,長くなりそうなので・・・
つづく。
太平洋戦争中に極秘の指令を受けて,山火事を起こすために
アメリカ本土に焼夷弾2発を落とし帰還した藤田信雄飛行士。
終戦後,十数年経って藤田さんは日本政府から呼び出されます。
指定された赤坂の料亭に行くと,当時の大平正芳官房長官から
こう言われました。
「アメリカが君を探している。我々は,外務省を通じてあなたの身元をアメリカに伝えました。アメリカは,真珠湾攻撃で日本軍人への反感はまだ相当に根強いものがあります。しかもあなたはアメリカ本土を爆撃した唯一の日本人です。万一,渡米して報復を受けたとしても,日本政府はあなたの身を守ることができません。日本政府は藤田さんが渡米されても一切関知しません」
藤田さんは爆撃後に上官から「死傷者も出た」と言われています。
彼には民間人を傷つけたという苦悩があります。
彼のもとに爆撃地に近いブルッキングス市から招待状が届きました。
招待状には藤田さんと家族も招待したい,とありました。
そこで藤田さんは初めて戦争中に何があったかを話しました。
藤田さんの中には,自分の爆撃で死者を出した。どれくらいの被害が
出たかを自分の目で確かめなくてはという気持ちがありました。
藤田さんは何かあれば自決するつもりで日本刀をもって行きました。
ただならぬ決意に,家族も同行することに決めました。
1962年5月23日,藤田さんは家族とオレゴン州ブルッキングス市
に到着しました。特別な許可を得て持ち込んだ日本刀を携えて…。
そこで待っていたのは・・・市民の大歓迎でした。
ブルッキングス市では,毎年恒例の「アザレア祭り」というイベントに
毎回,特別ゲストを招いていたのです。
ちなみにこれは去年の祭りのHPから。
この年,アメリカ本土爆撃を一機で実行した日本人の勇気を称えよう
という声が上がり,彼らはオレゴン州の日本領事館に手紙を書き,
外務省を通し連絡先を入手し,藤田さんに招待状を送ったのでした。
ブルッキングス市民にとっては藤田さんの英雄的な功績を讃え,
さらなる日米の友好親善を図ることが目的でした。
藤田さん来訪を歓迎しない人もいました。
まだ戦後17年しかたっていないのです。
しかし,藤田さんを待っていたのは・・・
主催したブルッキングス青年会議所の「戦争を美化するものではなく
あくまで日米両国の友好と平和親善のため」という趣旨に賛同した
市民からの募金による心温かい歓迎でした。
藤田さんは信じられませんでした。自分の爆撃で死傷者が出たはず。
しかし,藤田さんは意外な事実を告げられるのです。
藤田さんの爆撃で燃えたのは1本の木のみでした。
上官から聞いたという「死傷者が出た」というのは誤訳か,
戦意高揚のための軍の創作だったのです。
藤田さんが投下した焼夷弾のためにブルッキングス市の東約15キロ
の地点でぼやが発生しましたが,アメリカ林野部によってすぐに鎮火。
結果として木が一本燃えただけであったそうです。
しかも,前夜に雨が降ったため,森林は濡れていたそうです。
プレートにはこうあります。(おそらく古い写真です)
「日本による爆撃地
第2次大戦中,アメリカ本土に唯一,日本の爆弾が落とされた
1942年9月9日」
なぜこんな人情あふれる人たちと戦わなければいけなかったのか。
なぜ多くの若者はあの戦争で死んでいったのか。
藤田さんは事実に驚くと同時に,平和を誓うしるしとしてあの
日本刀をブルッキングス市に寄贈することにしました。
藤田さんはブルッキングス市民の前で話しました。
「もし,私たちが互いをよく知る友達であれば,そもそも戦争は起こらなかったのではないか? そう思うのです。そこで…私は約束します。日本のことをあなた方に知ってもらうために…いつの日か,必ずブルッキングス市のこどもや学生たちを私の手で日本に招待したいと思います」
その後の藤田さんについては次回。
2回で終わらせようと思いましたが,長くなりそうなので・・・
つづく。







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